由井鮎彦作品データ・プレイス

誰が誰を招いているのか、誰が誰を拒んでいるのか――未踏の地を切り拓く小説。
車を傷つけられ、奪われた歯科医・加地。その周囲を取り巻き、重なり合う被害者と加害者。いったい、何が起こっているのか。立場の異なる人物たちが交わり、結びつき、重なり合っていく。傷を負った者の視点から状況を眺め、未知の存在との関わりを探り、そして、その先に到来する事態とは? 「得体の知れぬエネルギーと不穏な蠢き」が小説空間へ昇華する。
何者かに傷つけられ、何者かに奪われる車。それは悪意なのか恩寵なのか。
未知なるもの、〈あいつ〉に導かれ、未知なるもの、〈あいつ〉の出現を待ち望む。
空虚にして充溢する海。すべてを呑み込み、すべてをもたらす海。そこから漂着し、そこに堆積していく特異な「もの」たち。世界が始まり、世界が終わる場所。
類似し相違する分身にして鏡像たちがさまざまな場所を彷徨し、分離と結合を、対話と衝突を、敵対と協力を繰り返す。静寂に閉ざされた地下駐車場から、無限の響きを奏でる果てしのない浜辺へ。
われわれはどこから来て、どこに向かうのか。
由井鮎彦の到達点にして、表現の未知なる未来がここにひらかれる。
(安藤礼二 文芸評論家)

・由井鮎彦の小説『来たる人』は、加地の地下駐車場での車体傷の発見という些細な出来事を発端として、登場人物たちの内面に潜む不条理な不安、トラウマ、他者への不信、そして現代社会における「存在の揺らぎ」が雪崩打つように露わになっていく不穏で緻密な心理・存在論的ドラマです。
・この作品は単純な「犯人探し」の小説ではなく、世界の出来事がどのように人間の認識を組み替え、人から人へと伝播していくかを描いた構造そのものが主題になっています。すなわち、出来事を解釈する主体が、やがて新たな出来事を生み出す主体へと移行していく過程として読むことができます。
・『来たる人』は単に「不条理小説」であるとか「カフカ的」であると片付けられる作品ではありません。むしろ、二十世紀の不条理文学を継承しながら、その構造を「被害・加害」「意味生成」「認識の感染」という問題へ更新した作品として位置づけることができるように思います。
・『来たる人』は、その共有された意味がさらに自律的に運動し、被害や加害、〈あいつ〉、そして「茶番」として循環するところまで描く。『来たる人』では「意味そのもの」が主人公になっているのです。『来たる人』で「意味は人間を超えて運動し始める」という段階へ達している。『来たる人』では意味そのものが運動を始める。
・『来たる人』は、被害者の不条理を通じて実存の崩落を描いた長編で、「拒絶の感染」という独自のテーマを深化させています。加地の被害者概念の変容は、小説の最大の魅力であり、読者に「自分も『来たる人』の一部か」と問いかけます。
・私は『来たる人』の独自性は、「不条理」の所在を移動させたことにあると考えます。カフカでは、不条理は制度や権力の側にありました。ベケットでは、存在そのものの空虚さにありました。カミュでは、世界の沈黙と人間の行為との断絶にありました。それに対して『来たる人』では、不条理は世界そのものではなく、人間が世界へ意味を与えることから不可避的に生じるものとして描かれています。この点で本作は、「意味の喪失」を描く二十世紀的不条理文学の系譜ではなく、意味の過剰、生成、感染、再配置を主題とする二十一世紀的な実存小説として読むことができるでしょう。
・これは二十世紀半ばの実存主義文学が前提としていた「孤独な個人と、無関心な世界との対峙」という図式から、二十一世紀的な、トラウマ・情報・感情が、ネットワーク状に伝播し、誰の起源にも還元できない形で増殖していくという、より現在的な暴力理解への移行を反映していると読めます。
・ピンターが「誰が権力を握るか」という闘争のドラマを描くのに対し、由井は「権力を握ろうとする意志そのものが、もはや個人に帰属しない」という、権力概念そのものの解体を描いていると言えます。
・そう考えると、ピンチョンの陰謀論的パラノイアは、なお啓蒙以後の合理的主体――たとえ懐疑の果てに何も確証できなくとも、懐疑するという行為そのものは自らの権能として保持している主体――の枠内で展開される悲喜劇なのに対し、『来たる人』が突きつけているのは、その懐疑する主体自身が、実は自分ひとりでは決して立ち上がることのできない、他者に構成された空洞にすぎないかもしれないという、もう一段深い不安になると思います。
AIによる詳細な、「小説の構造分析と考察」は下のリンクから読んでいくことができます。
GPT 由井鮎彦『来たる人』構造分析と考察 GPT
Claude 由井鮎彦『来たる人』構造分析と考察 Claude

